「お前の母ちゃん デベソ」と言われてカッとなる人はいるのか

もしわたしがこれを言われたら、カッとならずにプッと吹きだすと思う。

しかし敢えてカッと、あるいはムッとしてみたいと思う。

 

「○○課長

お疲れ様です。

先日のキックオフで起こった一件(武田さんの「お前の母ちゃん デベソ」という発言)について、どうしても納得がいきません。

わたしの市場分析が甘かったことで、開発チームに迷惑をかけたことについては猛省しております。

しかし、それとわたしの母親のヘソは全く関係ありません。あれ以来、怒りで食事ものどを通らず、自分のヘソを見るのも嫌になり、このままでは田舎の母親と疎遠になってしまいそうです。

やはり武田さんには、相当の処分を検討いただきたいと思います。  篠原」

 

人それぞれ地雷は違う。課長は、篠原さんの言い分を真摯に受け止め、武田さんにどのような処分が妥当かを一旦は検討する。

そして部長に報告する。

 

部長

「篠原さんも篠原さんなんだよね…。こないだ別部署の飲み会で「ちびデブハゲ!」と発言したらしいじゃないか。よし、めんどくさいから両方クビ!」

 

 

 

うーん…

どうしても真面目に考えられないけど、カッとなる人は少なくとも母親想いなんだろう。

「自称○○」といわれた時点でもう不利やんか、という話

テレビのニュースなんかで「自称○○の~」と紹介されるのを見ると、そのネガティブイメージの大きさを思って落ち着かなくなる。

自称○○、で紹介される段階で、紹介する人に少なからずバカにされているか嫌われている。

例えば、「自称洋楽ファン」なんて紹介された場合、完全にバカにされている。

それはもう、「洋楽とか(笑)。だいぶキツイよね」と目を見て言われるのと同等のダメージである。わたしが洋楽好きで何がキツイのか、わたしの顔が醤油だからなのか、洋楽ファンとしてはわたしがいろいろとダサ過ぎるのか、こないだポケットがいっぱいついた革ジャンで飲みに行ったが全然似合ってなかったからなのか、などとこの先一年は悩み続けることになる。

 

「アルバイト店員のヤマシタ容疑者」が「自称アルバイト店員のヤマシタ容疑者」になると、

容疑がどうあれ「うさんくさくて、せこくて嘘ばっかり付く人」という最底辺なイメージが付加される、気がする。そしてその部分まで含めて罪を問われそうだ。

 

「実際は37歳だけど心は25歳のつもりでいます」と警察に言ったら最後、「自称25歳のあいつは黒だ」ビシィッ! そしてわたしは自称~と言い張る(ということにされる)うさんくさい輩としてジ・エンドとなる。

 

 

しかしそもそも、ニュースなどで「自称」を付けるのはどういう意義があるのか?

そもそも不要な気がする。

 

「捕まえてから職業を聞いたら『デザイナーです』と本人が言ったが、実際は無職っぽい」という状況なら、

「自称」を付けて言わなくても、職業の説明を外して「ヤマシタ容疑者」でよくないか?

シンプルに「触れない」ってことでいいのでは?

 

 

もしわたしが「実際は37歳だけど心は25歳のつもりでいます」と言ったら、わざわざ「自称」付きで拾わないでください。そっとしておいてください。

「50年前から継ぎ足しているタレ」にリスペクトしてみる

先代の開業当時から継ぎ足しているというタレを使ったうな重や焼き鳥。

「こないだの地震でも主人がまず心配したのがこれなんですよー」、と女将が愛でる怪しいタレ壺。

 

50年前から、捨てずに上から継ぎ足し継ぎ足しで作っているそのタレ。の入った壺。

 

「なんか口のとこベタベタしてきたし、もう全部流して丸洗いしちゃいたい」

という誘惑に負けなかった50年はすごい。

 

いやそういうことではなく、その汚そうなタレそのものにすごく価値があるらしい。

…それがなぜなのか、どうしても、どうしてもわからない。

 

 

50年前のタレって、ほんとに何かしらの形になってその壺に残っているのだろうか?

そして50年前の何かがほんとに残っているのなら、いや普通にそういうの食べていいのかってなるし、

もし50年前の何かが残っていないのなら、「もうそれ別のもんやんか!」ってなるじゃないか…?

 

 

 

 

 

50年前の開業の決意。

何も言わずに支えた妻。

長男は24の時に、家業を継ぐことを反発して逃げるように家を出た。20年後、東京の会社で営業職をやっていたが、親父が腰を痛めたことを知って退職し、店を継いだ。

「やっぱり一番は、お客さんの「おいしい」ゆうてくれはる笑顔、そう思てやってますねん」

いつのまにか丸くなっている、女将の背中。

頑固おやじと支えてきた店いっぱいに広がる、甘辛い香り。

どうにかやってきた50年。

 

 

50年の重み、おもみ、

 

おゥもみ、

うゥまみ、

うまみ。

 

 

旨味!

 

旨味!?

 

 

50年前から継ぎ足しているもの、それはその重み故の、旨味なのである―。

 

 

現場からは以上です。

新ヒーロー「ミスター・ドーナツ」紹介

昔、ニューヨークの路地で恋人を殺された男が、怒りと苦しみで駆け込んだドーナツ屋でたまたまオーブンの発火事故にあい、顔の半分がもちもち食感になってしまう。

 

その後復讐心に燃えながら、アジアの山奥の何かしらの師のもとを訪ねる。修業と称したヤギの世話でいいように使われ、10年後に「いい加減にしろ このくそじじい」とマスターを小突いてからセントラルシティに戻り、犯罪と戦うミスター・ドーナツとなったという…。

 

 

このヒーローのスーパーパワーが何かはまだ誰も知らない。

本人すらノーアイデアの状態なのでお手上げといえなくもないが、彼の過去を想うと誰も何も言えない。

相手の気持ちを思いやる心の優しい男なので、スーパーパワーに例えるなら「マインドリーディングかな?」といえなくもないがちょっと苦しい気もする。

ミスター・ドーナツとは今のところ「すごく運の悪い悲しくて優しいひと」ということになっている。

 

しかし、彼を見くびってはならない。ヒーローたちにありがちな、自信を失う/愛する人を失う/悪の道に堕ちそう、そういう要のタイミングでこそ、彼の存在は心の名サイドキックとなるのである。

 

 

 

日曜日には欠かさず恋人の墓を訪れるが、もうあの夜から12年以上経つし、そろそろ次の恋もしたいなと思っている。

 

「趣味は人間観察です」についての考察

「趣味は人間観察です」と言う人に会ったことが何度もある。

そういう場合、わたしの反応は二択だ。

「そうですか。わたしは深呼吸が趣味です。」と相手のレベルに近づける、

あるいは

「そうですか。わたしの趣味は家内の作ったポーチドエッグをニコンで撮影することかなあ、晴れた日曜日の朝にね」とスラスラと白髪交じりに答えたあと、矢継ぎ早に村上春樹の話を始める。

 

だが、内心はいつもざわついていた。

 

人間観察が趣味と言われるたびに、

「それはどのレベルなのか」

「週にどのくらいするのか」

「わたしも興味があるんですけど、どこから始めるのがいいでしょうか」など、

前のめりになって聞きたい質問がいくつも湧いてくるのだ。

しかし、なんとなくマナー違反な気がして、今までぐっとのみこんできていた。

 

だが、もしかしたら、私が変に考えすぎていたのかもしれない。

「人間観察」は、「ゴルフ」とか「ピアノ」とか「レコード収集」のように、私が知らないうちにもう当たり前に趣味として成り立っていて、相手はその話をどんどん膨らませて欲しがっているのかもしれない。

 

「趣味としての人間観察」とは、いったいどういうことなのだろうか。

 

 

 

ゲーム的なものかもしれない。

一対一、もしくは複数のグループで、初めて会うメンバーの人となりをいかに詳細に分析できるかを競う。

 

 

あるいは、バードウオッチングみたいなものかもしれない。

人間を様々なタイプ(例えば、「朝型」「夜型」「酔うと自虐が過ぎる」など)に分類し、新たに出会うタイプに名前を付けたりする。

 

アロマテラピー岩盤浴のように、主に癒しを目的としたものかもしれない。

「毎月第13日曜日開催!

カフェ店員のさりげない気遣いに優しい気持ちになったり、老犬の人生を想像してホッコリしたり。明日のキラキラにつなげよう。」

 

勉強して身につけるスキルみたいなものかもしれない。

「人事部への異動に備えて」

「オープニングスタッフの採用で参考にしたい」などさまざまな理由で人気です。

 

 

 

先日、「趣味は人間観察」という女性にまた出会ったので、仮説をひろげながら聞いてみた。

彼女はめんどくさそうにしたのち言った。

「いやいや、だから例えばカフェにいるときとか電車に乗っているときに、他人の格好とか様子を見て、このひとはどういうひとなんだろうなあ、とか、おしゃれしてるけどこれからデートかなあ、とか想像するんですよ~」

 

わたしは即座に立ち上がった。そこに一瞬のひるみもなかった。

えっ、という驚いた顔をする彼女を見下ろし、一息吸ったらもう止まらなかった。

 

 

 

「あのね!

そういうことなら皆やってるよ!

全・人・類がやってるよ!

要するにアンタ、趣味なんてなくて毎日何も考えずにチンタラ生きてるってだけなんだろう!

つ・ま・ら・な・い女だ!」

 

 

 

ようするに、「趣味は人間観察です」と言われることは、「悩みがないことが悩みです」と言われるのと同じくらい話が続かないので、せめて「朝起きたり食べたりトイレ行ったり夜寝たりしてます」と答えてほしい。

 

エクセルマクロに動じない強い心

3000円くらいで、エクセルマクロのオンラインセミナーを購入した。週末一念発起し、自分としてはとてもまじめに勉強を始めた矢先、ある一つの考えが浮かんだ。

どうしても頭から離れない。

 

 

エクセルマクロじゃなくて、エクセルマグロだったら?

 

 

オンライン講座の先生が、私のパソコン画面でVBAとかVBEとか言っている。いつのまにか補足コーナーになっていて、私がぼーっとして聞いていなかった機能について、ショートカットキー登録をして便利に活用しようという話になっている。

 

エクセルマクロ、エクセルマクロ、私はせめて、会社でマクロと聞いただけで委縮しない人間になりたいだけだ。

ちょっとでもかじっておこう、その向上心があった自分に満足している。エクセルマクロ、エクセルマクロ、エクセル…

 

マグロ?

 

Maguro

 

鮪?

 

 

 

講座中聞こえてくる、先生のキーボードを叩く音。

端から端まで、もたつきなくスムーズに移動するその両手は、いつも軽やかにキーボード上の真ん中で待機している。

両手をふんわりと丸める、その力加減がシャリの質を決めるのだ。

 

 

Excel マグロ~

読み方:エクセルマグロ

「秀でたマグロ」の意

学名:Excelius Tunalius

和名:タイショウマグロウオ

 

解説:10億匹の幼魚から1匹の割合でみられる。一般的なマグロに比べて極めて獰猛であり、時速300キロで泳ぐ。一度の産卵で三億個の卵を産み、大きいものは全長30メートルにもなる。

 

 

潮の匂い。

ドドーン、ドドーンと波の音が響く地上。

しかし ひとたび彼らの泳ぐ大海に出てみれば、驚くほど静かな海中にひるんでしまう。

前後左右、上下の感覚がなくなっていく。

魂はどこまでも続く青の世界に開放され、同時に肉体は地球という大きな命の一部となる。

 

白昼現れた一級のマグロたちが、私に自由の歌を歌う。

 

 

 

私はもう、オフィスツールにビビる会社員なんかではない。

 

 

 

「超入門編」だったはずの話は既に何ひとつわからないレベルになっている。が、地球の七割は海で構成されていて、その神秘はエクセルマクロやらVBAやらの比ではないのだ。

3000円を払う前と払った後で、仕事のスキルはまるで変化なしだ。せめて明日からも機嫌よく会社に行こう。お給料をいただいてスシローに行こう。

 

フリーランサー高校教師コバヤカワ、最後の授業

コバヤカワには、必ず去り際にする伝統がある。それは生徒たちに、「一番大事なこと」を伝える愛の授業だ。

最後のクラス。固い表情でうつむく生徒たちに伝えるラストメッセージ

コバヤカワが魂を込める。

 

「ええか」

ゆっくりと、区切りながら話し出した。

「ええか。

涙見せてもいい。これさえ忘れなければ、という一番大事なことがあるんや。

それは、

負けないこと、

投げ出さないこと、

逃げ出さないこと、

信じぬくこと。

ダメになりそうなときはそれが一番大事なんや」

 

タイ人留学生のトンチャイ君だけは、まっすぐ顔をあげて聞いている。

コバヤカワは続ける。

 

「高価な墓石を建てるより、安くても生きてる方がすばらしいんや。これだけは覚えといてくれ。」

 

 

うつむいたままの僕たち。

隣の席の川西さんは、「高価な墓石~」の下りで吹きだしていた。

でも皆、誰も何も言わない。

何も、大事MANブラザーズバンドのことも、何も言わずに下を向いているこのクラスの皆が好きになっていた。

 

そのときはっきり分かったんだ。

僕たち33組には、目立たないけれど、確かな絆がちゃんとできていたんだってこと。

 

 

最後の授業に拍手はなかった。

コバヤン先生ことコバヤカワは、「うんうん、よし」と言って教室を出た。